2019-11-19 第200回国会 衆議院 本会議 第9号
その十五日後に、桂太郎内閣は総辞職、いわゆる大正政変が起こり、時代は大正デモクラシーに向かっていくわけであります。 玉座の陰に隠れているとは申し上げませんが、予算委員会を開きもせず、説明責任を逃れようとする安倍総理を強く弾劾するとともに、同じく説明責任を果たしていない日米貿易協定、日米デジタル貿易協定に反対を申し上げ、討論といたします。 ありがとうございました。(拍手)
その十五日後に、桂太郎内閣は総辞職、いわゆる大正政変が起こり、時代は大正デモクラシーに向かっていくわけであります。 玉座の陰に隠れているとは申し上げませんが、予算委員会を開きもせず、説明責任を逃れようとする安倍総理を強く弾劾するとともに、同じく説明責任を果たしていない日米貿易協定、日米デジタル貿易協定に反対を申し上げ、討論といたします。 ありがとうございました。(拍手)
それは、明治における自由民権運動や大正デモクラシーにも匹敵する、民主主義のバージョンアップであります。令和デモクラシーとでも呼ぶべき、一人一人の主権者から始まるムーブメントを私は国民の皆さんに呼びかけたいと思います。 以上、不信任の理由はまだまだ語り尽くせないほどあります。残念ながら、安倍内閣は、民主主義と立憲主義の見地から、憲政史上最悪であると言わざるを得ません。
大正デモクラシーがありました。それから、治安維持法で創価学会の第二代会長の戸田城聖氏が投獄されるというような大変に不幸な、民主主義が抑圧された時代がございました。一日で変わったのではありません。次第次第に社会が悪い方向に進んだのでございます。今、そうした、社会が危険な方向に一歩一歩進んでいる。まさに、この法律がそうした悪い方向へと進む大きな原因となるんではないでしょうか。
いわゆる八月革命説から大日本帝国憲法の改正という手続をとった日本国憲法でありますが、大日本帝国憲法は、立憲君主制のもと、国会開設を目指した自由民権運動、アジア初の憲法制定、そして、大正デモクラシーや普通選挙法などの民主主義の実現という成果を上げる一方、天皇大権を利用した軍部などの台頭を抑えることができず、報道の自由などもないがしろにされ、明治憲法体制の全面的崩壊現象が昭和二十年に起きたと考えております
この方は、大正デモクラシーの中で立憲主義に反した政権運営を行ったということで、非立憲、あの頃は立憲主義とか非立憲というのは非常に国民的な言葉だったそうですが、実は大阪にもう一つ面白いのがあって、ビリケンという幸せの神様がいるんですけれども、このビリケンというのに掛けてビリケン寺内というように呼ばれていたそうであります。
やはり、先ほど浅野先生御紹介いただきましたけれども、アジアで初めて帝国憲法下で議会を開設をし、苦悶苦闘しながら大正デモクラシーを経て議会制度をどう定着させていくか、そういった先人の努力、日本は民主主義をGHQの占領政策で与えられたわけじゃない、戦前からいろんな課題はあったとしても自らの民主主義を育んできたという、そういった視点の見方、戦争の原因の見方というのが違うのかなというふうに思っておりましたので
あえて申し上げれば、大日本帝国憲法、明治憲法も、あの時代の憲法としては、私は、世界史的に見ても相当進歩的な、すぐれた憲法であった側面があったし、だからこそ、普通選挙運動などを経て大正デモクラシー、そういう時代が築かれたりしました。 しかし、それが道を誤っていった。これを憲法史の側面から捉えたとき、やはり憲法解釈の一方的な変更、これが一つの分かれ目になっていると思います。
この間、いっときだけ大正デモクラシーという時代もありましたが、しかし、基本的には軍国主義、そして国家主義の増長、ばっこを許したと言ってもいい。これは、まさに政治の敗北でありました。そういう経験をした上で、その後の七十年の平和が築かれたというふうに私は思っております。
いわゆる大正デモクラシーを受け、当時の政友会、民政党が二大政党として政権交代を繰り返しながら権力闘争を重ねた結果、徐々に国民の支持が失われていった。一方、軍部は、一定の戦果を上げることで国民の喝采を受けることになってきた。
悪名高いナチス・ドイツの時代にできたとおっしゃいましたけれども、日本では、実は今の原始発明者帰属になったのは大正時代で、九十四年前、大正デモクラシーという民主的な機運が盛り上がる中でできる。
大正デモクラシーのときには普通選挙をやれという声が上がり、それから、戦後の混乱期でありましたけれども、新生日本のときには婦人参政権ということで大変盛り上がったということも漏れ聞いているわけでございます。
その中で、私、改めて、戦後いわゆる現行憲法がGHQの占領下で国民に与えられたという、そういった戦後から民主主義が始まったという考え方ではなく、明治維新の五箇条の御誓文、立憲政体の詔や、様々な、大日本帝国憲法を含めて、また大正デモクラシーの時代の中で、我々先人の方々が大変な努力の中で参政権、護憲運動や普選運動などでつかみ取ってきたという、このような近代の歴史をしっかり我々は、改めて学校そして私たちもかみしめる
特にペリー来航の日本開国以降は、列強とどう対峙していくのか、その過程で日清戦争、日露戦争もあって、坂の上の雲を目指し頑張ってきた、あるいは大恐慌も来た、関東大震災もあった、そして大正デモクラシーもあった、でもその後には軍国主義になってきてしまってあの大戦に突入して終戦を迎えたと。これは日本史、世界史、分けられないんですね。もう日本史の中に世界史があるし、世界史の中に日本史があった。
かつての、今、大正デモクラシーの時代の混乱、それは私たちも少し前にそういったことが起きそうになったこともございましたので、私は非常にここは心配をしていたわけであります。今回、我々もこの轍を踏まないようにしなければいけないという思いはございます。 一方で、明治以来のこの人事制度を大改革しようではないかと、こういう総理の御意思、また、自民党としてこれまでも公務員制度の法案を三回出しました。
なぜかと申しますと、これは戦前の歴史がございまして、大正デモクラシーという中で二大政党ができ、政友会と憲政会という二大政党ができて、それでいろんな政治の民主化が進んだわけではございますけど、その当時何が起きたかと申しますと、そもそも官僚制度を山県有朋がつくったときには、官僚というのは官僚で人事を決めていくというもの、それを変えたんですね。なぜかというと、政党が力を持ち始め、政党政治を始めた。
大正デモクラシーのとき、確かに二大政党とかなんか言われたのでありますけれども、お互いに足の引っ張り合いをして、悪辣な権力闘争をし、そして統帥権の干犯まで活用して権力闘争を演じたんですよね。結果的に、政党政治の信頼を失い、軍部に支配権を握られていったわけでありますね。 そういう思いからすると、我々の時代、今、決められない政治だとか決断ができない政治だとか言われております。
まさに明治の後に大正デモクラシーがあったような、そういうフェーズに入ってきているんではないかなと、こういうふうに思うわけでございます。
今おっしゃられた大正デモクラシーの後の政友会それから民政党の二大政党制というのは、ポツダム宣言で、多分、民主主義的傾向の復活というふうに連合軍といいましょうかが書いた、日本にも、一〇〇%の民主主義ではないけれども、政党政治、政権交代によって、そして議会と内閣によって政治が運営されるんだ。
大正デモクラシーの名残ですよね。その大正デモクラシーのころに大学出て、大正デモクラシーの中で育った人たちが地方自治法を作っているんですよ。 ですから、これはまたそのときに議論しなきゃいけませんが、それがもう極めて、何というのか、この五十年、六十年の経過の中でヒディアスな形になって、もう五百数十条あるんじゃないですか。そんな法律はおかしいと。
板垣退助や伊藤博文に象徴される明治維新以来の立憲主義の動き、大正デモクラシーなどへの認識が欠けているのです。総理は、歴史や伝統がお好きなようにお見受けしますが、総理の歴史には、昭和初期から一九四五年までの歴史しか存在せず、例えば、総理と同郷の偉人であります伊藤博文などが立憲主義確立に向けて尽力した明治維新から明治、大正期の歴史を全く御存じではないのかと危惧をいたします。
○国務大臣(長勢甚遠君) これも専門的に勉強したことではありませんし、先ほどの裁判員制度に取り組むプロセスの中で聞きかじったようなことですから、間違ったらお許しいただきますが、原敬さんが大正デモクラシーの中で日本の民主化、中でも司法に対する民主化に対して意欲的に取り組まれたことであるというふうなことだったかなという記憶でございますが。